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Phirosophy経営理念
思い描く未来の一歩先へ導く
「思い描く未来」とは、タッチハウスと関わる全ての人々が思い描く幸せ、満足度、やりがい、成長
サービス、利益、発展など「ポジティブな思いの総称」であり、それを私たちは越えて行く。
そして、その「一歩先へ」関わる全ての人々をお連れするのだ。
驚きと感動と更なる夢を添えて、タッチハウスの存在、そして関わったことが、後に
幸せであったと思い続けていただくために。
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Missionミッション
家づくりは正に人生設計そのものである。
安心の家づくりによって、
家族を笑顔に満ちた幸せな未来へと導く私たちが販売する・提供する『家』は、
人の人生を左右するほどの多大な影響力があることを深く認識し、
ご家族が入居後に幸せで豊かな生活を実現できるかどうかは、
私たちの知識・経験・努力・知恵によって実現されることを深く強く肝に銘じること。
そして私たちと出会ったご家族が、
ひと家族でも多く幸せで豊かな生活が営まれるよう、
サポート、コンサルティングし、
笑顔に満ちた幸せな未来へと導こう。
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Autobiography自分史
◆幼少期に生死をさまよう
1967年に静岡県天城湯ヶ島町(現伊⾖市)で、
山田家の⻑男として誕生し、
5歳の時に大工だった父が起業するため三島市へ移住。桜ケ丘幼稚園に入園すると、
折れないものは無いというほど折り紙に夢中になり、折り紙の天才
といわれ、
うちの子と遊んで欲しいとリクエストが殺到したのを覚えています。小学校は三島市立錦田小学校。
入学したその年、
小学校1年生の秋に大事件が……友達の家に向かう途中で交通事故
頭蓋骨損傷で大量出血し、
3日3晩意識が戻らず生死をさまようも、
両親や親戚が必死に呼止めてくれたおかげで、
この世に戻ってこられました。一命はとりとめたものの、
けがの具合は深刻で、
あと数ミリ深かったら命はなかったと言われ、
入院は8ヶ月にも及びました。入院中には幼馴染や学校の先生がお手紙をくれて、
「山田君がいなくてさみしい」
という言葉に涙したことを覚えています。
本来なら8ヵ月も休むと進級できないのですが、
1年生と2年生の学年をまたいで休学したことで、
先生の配慮もあってか幸いにも2年生になることができました。
◆弟を守りたいという気持ちから
その後は順調に小学生生活を送っていましたが、
5年生の時に障害を持って生まれてきた弟が同じ小学校に入学 。弟がいじめられないようにとの思いから、
山田の弟だから手を出すな
となるように自分の言動を強め、
自分の存在価値を高めようとするようになりました。そのことが影響したのか、
運動面では100m走で三島市の大会で優勝したり、
ソフトボール大会で市の選抜選手に選ばれてホームランを連発したりと、
周りに敵なしという存在になれました。また同時期に音楽への関心も強くなり、
お年玉やお小遣いをためたお金でフォークギターを購入し、
のめり込んでいきました。
◆順風満帆だったはずが……
中学生になっても運動は順調で、
バスケットボールで県大会出場。音楽は友達とバンドを結成し、
オリジナル曲をつくり、
錦田公⺠館のコンサートで演奏するまでに。そんな順風満帆に感じられる中学生時代でしたが、
高校進学に対して父親ともめることに。音楽活動で学校の先生の影響を受け、
学校の先生になりたい!
という思いが湧き上がり、
両親に相談するも、
中卒で勉強嫌いだった父親は、「理屈っぽくなるだけだ!」
「学校の先生にはさせない!」
と猛反対。
それだけでなく、「大工になるために、高校は必要ないだろう!」
と、高校進学自体にも反対。
家業を継ぐことも、私の頭の片隅にはあり
工業高校も考えていたのですが、
進学を反対された反発で受験し、
伊⾖中央高校に入学。そんなこんなで高校には入学したものの、
気持ちが不安定で学校が好きになれず、
部活のバスケットボールにも打ち込めず。もやもやした気持ちをぶつけるために、
エレキギターを始め、
ヘビーメタルバンドに参加。そんな感じだったので、
いつの間にか先生になることへの思いも薄れ、
なんとなく高校に通っているだけ。ただ、学校が進学校だったため、
大学進学を目指して勉強はしていたのですが、
またもや事件が。
◆進学を断念して就職するも
父親が仕事でだまされ数千万円を失う……
家族で話し合った結果、
進学を断念することに。アルバイトをして何とか卒業後
家業の手伝いという形で初代山田建築に就職。当然のことながら最初は右も左もわからない。
当時は若い人が少なく、
金の卵だと言われていましたが、
現場掃除や道具の手入れと準備、
きつい力仕事をさせられるだけ。仕事は盗めと言われ、
教えない見せないの方針に加え、
自慢話と人の批判話ばかり聞かされる毎日。会話の次元の低さと、
信頼できぬ人々に囲まれていることで、
希望も見出せず落胆。
◆親方への弟子入りが転機に
しかし、そんな中にも転機が。
親戚だった宮大工の親方の所に通うことになり、
そこで
墨付けなど従来のやり方とは違った、関数で建物を考える
ということを教えられたのです。
論理的な計算と昔ながらの方法。
この2つを知ったことで、
一気に建築に対する興味が増した私は、
建築の教本を読みあさり、
設計についても学び、
一級技能士(建築大工) の資格取得にチャレンジ。見事に一発合格。
その後は仕事の経験もしっかり重ね、
技術も磨き上げていくことができました。そしてプライベートでは、
ギターの教室で知り合った妻と26歳で結婚。翌年には長女も生まれ、
二級建築士にも合格。何もかもが順調に進み、
幸せを感じていたのですが、
人生とはそういうものなのか、
またまた大事件が……
◆どん底からの再起
火事で自宅と工場が全焼
材木が積み上げられ、
立ち並ぶ状況の工場は、
火災保険に入ることができませんでした。なので保険金はゼロ。
大工をやめよう
一時はそう思いました。
けれども新しいことを始めるより、
ここまで積み上げてきたものを活かしたほうが良いのでは。そう考え、
あらためて自分の気持ちを確かめると、やっぱり大工を続けたい!
周囲の反対を押し切り、
父親の会社とは切り離した、
新山田建築として独立を決心。31歳、アパート暮らしから再始動です。
そこからは色々な苦労もありましたが、
無事に新築工事の設計施工も請け負えるようになり、
本業以外でも技能開発学院(職業訓練校)の講師として、
大工技術の実技指導を担ったりと、
仕事の幅が広がっていきました。仕事も波に乗り、
従業員も増え、
プライベートでも長男、次男が誕生。安定したかと思うと、
やっぱり何かが起こる私の人生。
◆自分中心の考えが招いたこと
従業員が一人去り、二人去り……
私が給料を払っているのだから、
従業員は私の言うとおりに働くのが当然。当時はそんな身勝手な、
自分中心の考え方しかできなかった私。従業員の言うことに耳を傾けることは無く、
去っていっても何とも感じず、自分でやった方がクレームもないし気が楽だ!
と考えてしまうほど。
けれども、
当然のことながら人が減っているので、
こなせる仕事も減ります。仕事を断ることが多くなった私のもとから、
仕事が無くなるのに時間はかかりませんでした。
◆人への思いの変化
それからは弟と二人で、
細々とリフォーム工事。従業員がいなくなってから9年が経過したある日、
携帯電話が鳴りました。見覚えがある電話番号。
その電話に出ると懐かしい声が。
私のもとから去っていった、
一番弟子からの電話でした。「また使ってもらえませんか……」
涙が出るほどうれしかった私は、
「明日からおいでよ」
と、とっさに応えていました。
今度は絶対に離さない
そう心に強く誓いました。
翌日から現場に入ってもらい仕事ぶりを見ていると、
とてもきれいな仕事をするので、
一緒に働いていた内装屋さんに、「あいつ腕上げたな」
と話をしてみると、
「前からそうだったじゃ」
と言われてしまい、
昔の私には人を受け入れる気持ちが全く無かった
ということを痛いほど感じさせられました。
◆自分の家族は……
一番弟子が戻ってきてくれたことで、
再び気力が充実したため、
新築工事への思いがよみがえってきました。そこからより一層、
良い家づくりをしたい!
という思いが強くなり、
数多くの勉強会に参加し、
たくさんの学びを重ねました。そんな中で、
とても大きな影響を受けたことがあります。「山田さんは、どんな仕事をしたいのですか?」
研修講師にそう問われた時、
私は迷うことなく答えました。「お客様家族を幸せにしたい」
その返答に対して講師は、
「自分の家族は幸せですか?」
そう返してきました。
当時の私は仕事一筋で、
お金を稼いでさえいれば家族は困らない
という考えで自分のことしか見ていなかったのですが、
講師の言葉ではっと気付かされました。小学校でいじめにあい、
保健室登校だった長女。中学校が荒れていて、
人殺し以外は全部見たと語る長男。子どもたちにどんなことが起きていても、
向き合うことなく、
全てを妻にゆだねていた私。妻も子どもたちも、
そんな私についてくるはずがありません。自分の家族は全く幸せではなかった
自分の家族さえ幸せにできない私が、
お客様を幸せにできるはずがない。大事なことに気付くことが遅かった
そう反省するばかりでしたが、
そこから妻と子どもたちに徹底して向き合い、
理解することに努め、
心から受け入れ、
関係を修復していきました。現在、私どもにはスマホの家族Lineグループ
「Teamやまだ」があります。
成人し、東京でそれぞれ一人暮らしをしている、
長男・次男ともつながっています。このLineでは、梅雨入り、暑中見舞いといった
時候の挨拶を妻が、絵手紙で書いたものを載せたり
長女が立ち寄ったお洒落なカフェでの
「映えるランチ」の写真を掲げたりしています。コロナ禍でなかなか帰省も出来ない彼らからは、
短い言葉ではありますが、近況を伝えて来てくれます。
少し時間はかかってしまいましたが、
今ではお互いが相手のために協力し合える、
とても仲の良い自慢できる家族となっています。
◆山田建築 タッチハウスの想い
家づくりにもっともっと真剣に向き合わなくてはいけない
自分の家族との関わり方を変えるのと同時に、
そこから本当の意味での、家族が幸せになるための家づくり
に向かって歩み出しました。
現在の山田建築 タッチハウスの家づくりには、
建材や素材の性質や、
化学物質による健康被害の調査など、
これまでの様々な学びが活かされています。マイホームを持ちたい!という夢は、
決して遠くて届かないというものではありません。昨今の低金利の時代
無理の無い資金計画を提案する事ができます。家族の健康を守ることができる室内環境で、
住宅ローンに追われることもなく、
安心、安全に毎日笑顔で暮らし続けられる家。そんな家づくりの身近なパートナーでありたい。
それが山田建築 タッチハウスの想いです。
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